品川拍子は神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されます。

町内神輿宮入での品川拍子演奏

町内子供神輿での品川拍子演奏

昭和初期、寄木神社(洌崎)大神輿の海中渡御

ご神面

◆江戸時代中期

品川拍子の原始

 もともとは神輿渡御では神輿の前に太鼓が先導して、一本撥(片手)で「天下泰平・五穀豊穣」と打っていたと言われています。
 宝暦(1751〜1764)のはじめの頃、漁師が品川沖で面(ご神面)を拾いあげ寄木神社に奉納しましたが、宝暦年間に疫病が流行して死者が多数出たため、貴布称神社(現荏原神社)に奉納されました。この御神面が海中から上ったことから、里帰りの意味もあって、同社祭礼の時に御神面を蓮台にのせて海中に入れました。
 後に、御神面を神輿の屋根に付けて海中渡御をさせることになりました。当初はまだ笛・太鼓は伴っていなかったようです。

◆江戸時代後期

海中渡御と大拍子

 その後、海中渡御の時に威勢をつける意味もあって、神輿を先導していた鋲打ち太鼓を神輿にくくり付けましたが、安定性が良く無かったので、神楽で使う大拍子(桶胴の締め太鼓)を神輿に付け、撥も海中渡御で打ち易くするために、丸棒のものから竹製の長めの撥になり「天下泰平・五穀豊穣」と打って海中渡御を行うようになっていきました。
 このようにして神輿に大拍子を付けた海中渡御も、安政(1854〜1860)の後期頃には、太鼓に笛も伴って渡御されたという伝えもあります。

◆明治期

品川拍子の始まり

 明治初期の頃までは、南品川 荏原神社(貴布称神社)や北品川 品川神社(稲荷神社)の祭礼では、神輿に大拍子が取付けられ神輿進行に合わせて「天下泰平.五穀安穏」の調子で太鼓を打って渡御していました。
 その後、品川の各所で神輿の渡御に合わせて笛や太鼓を打っていたと言う話もありますが、いずれも定かでは有りません。
 やはり品川拍子の創始に大きく係わったのが、「新田のおじいさん」と呼ばれていた品川小関の嶋田長太郎氏で、明治の中頃に太々神楽の大拍子の打ち方や祭礼囃子の曲調や当時流行していた唄などを基に、神輿の渡御に合うように威勢のいい曲として創始しました。その時に現在のような笛の伴奏に合わせて割竹の撥で大拍子を叩き、その拍子に合わせて神輿を担いでゆく「品川拍子」が確立されました。

◆大正期

笛睦の発足

 大正時代に入ると、各町内では町内神輿が盛んに作られるようになってきました。町内神輿は各町の若者によって担ぐことから、勇壮なテンポである品川拍子が好まれ、品川拍子も大きく発展していくこととなりました。
 この頃はまだ、嶋田長太郎氏を中心に南北品川は一緒で、笛睦(ふえむつみ)という名称で稽古をし祭礼に当たっていました。

◆昭和戦前期

品川拍子の発展

 この時代は、嶋田長太郎氏が創始した品川拍子が若者に伝授されて、若者達は祭礼時に品川拍子を演奏していきました。当時嶋田長太郎氏の直弟子たちの主なメンバーは
 中山寅之肋(北品川)
 山本二郎吉(南品川)
 桜井桑太郎(南品川)
 伊藤治郎吉(南品川)
 石井 万吉(東品川)
 伊藤 栄吉(東品川)
 これらの人たちが品川拍子を習得して、北品川、南品川、東品川の各地域で、品川拍子を指導していき、北、南、東と各町内ごとに活動するようになっていきました。
 しかし、大東亜戦争がはじまる頃には、笛睦の活動も殆ど休止状態となってしまいました。

◆昭和戦後期

無形民俗文化財

 戦争が終わってしばらくすると、品川でも祭礼が復活し、それに応じて品川の各地域で品川拍子の活動も再開し始めました。南品川では昭和25年に「ゆきわ会」として山本二郎吉氏を初代会長として再出発し、北品川では昭和29年に「品川拍子保存笛睦会」、東品川では昭和43年頃に「東笛睦会」(洌崎と区別するため「東品川一・三笛睦会」と称する)として再出発しました。
 そして品川独自の庶民芸能文化である品川拍子は、昭和62年3月に南品川の「品川拍子ゆきわ会」と北品川の「品川拍子保存笛睦会」が、平成14年10月に東品川の「東品川一・三笛睦会」が、それぞれ品川区無形民俗文化財に指定され、品川拍子の保存と伝承に努めることとなり、現在に至っています。



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